「本当に疲れてた」

あんずに占ってもらった通り、本当に私は疲れ切って、限界を通り越してた(今も限界を通り越したまま)んだと思う。

私の性格上、

外に出ると必ず何か、あるんだ。

大きな失敗をして学んだり、いい人に出会って感動したり、興味の惹かれる心を突き動かされるものに出会ってそれに向けて行動を開始したり。

それがもう疲れた。

 

今、ずっと建物の中にいて、一人でずっと小説を読んだり、昔の写真を見返したりして、ただ朝起きてご飯食べて日が暮れてご飯食べて寝る。それがとんでもなく心地いい。満足してる。私は何もしてなくても、私の体は1日分老いてて。ご飯食べてうんち出すのに1日分使った。私が何もしなくても、太陽が昇って日が沈む。朝が来て夜が来る。なんと、毎日。私が何にもしなくても、世界は終わらない、ちゃんと動くんだ。

私が止まったら、世界は止まるのかと思ってた。私が止まっても、世界は進むし、なんなら、私も1日分老いるんだわ。老いるというか、、1日分、ご飯消化してうんちにする。1日分死ぬ時に近づく。だけ。別に世界が終わるわけじゃなかった。私が止まったら、世界は、終わるんだと思ってた。

 

違うのね。

 

何もしなくても(寝てるだけじゃ気付かないかもしれないけど)、気づきってあるのね。というか、目的を持ってそれに向けて行動しなきゃいけないと思ってた、常に。なにかやるべきことをやらなければ、成長できない、死ぬ、世界は終わると。

 

そんなことないのね。

 

特に目的もなく、ふらっと来たいつもの大学の図書館の、お気に入りの図書コーナーの裏のたまたま通りがかったコーナーでたまたま目に付いた本を読んで。気づくことがある。

 

別に、何にもしなくてもいいのか。

何もしない時があっても、死なないのね。世界は進むのね。

 

 

宗教や信仰や自然が好き。

旅が好きなのは、気づきがあるから。

宗教や自然や旅は繋がりがあると思う。

 

もちろん、日々忙しくしてても気づくことはある。でも、忙しさの中にいるときは何も気づかない。ただ目の前のことに必死で、それから少しすぎて、疲れも取れた時、忙しさを振り返った時に、そこで学んだことに気づく。

あまりにも忙しくて、息つく暇もなく、1週間寝続けても疲れは取れず、それはもう疲れじゃなくて心の傷になってて、もう振り返ることなんかできなくて、そうなった時、人は死を意識するようになるんだね。

 

健康な状態で死を意識したのは今が初めてかもしれない。

 

割と、ずっと死にたかった。まだ、完全に抜け出したわけじゃない。けど、光が見え出した。

 

あのとき、ものすごく苦しかったのは、ものすごく生きたかったからかもしれない。表裏一体で、ものすごく限りなく死にそうだったからかもしれない。

死にたい、死にたい、と思ってた。私の手によって、私が自ら私の命を絶ちたいと思ってた。けど本当は、死んでしまいそうだ、何者かによって殺されそうだ、嫌だ、生きたい、生きたいという意味だったんじゃないかな。そんな気がする。何者かが何者なのかは、わからないけど。けど、認知症の老人が別人格になるように、鬱病になると別人格になるように、人間はその人本来の人格と別の人格を持つことがあるんじゃないかな。だから、そういうのは「病気」で「薬」を飲むんじゃないかな。

 

「生きたい」の苦しさを知ったよ。

 

とにかく、

私が何にもしなくても、好きなように生きても、太陽は昇って日は沈んで、季節は巡る。私が何にもしなくても、世界は終わらない。そんなことに気づいた、今日でした。

 

それに気づいたらふと掃除がしたくなった。

私が何もしなくても、埃はたまる。窓は汚れる。私が何もしなくても、生きてる限り、垢が出て臭いがしだす。私が何もしなくても、汗が出て洋服は臭くなる。

私って生きてるのね。

部屋の埃を取って、体の垢を取ろう。

冷蔵庫か洗濯機か椅子か掛け布団で迷ったけど、今一番必要なのは洗濯機かな。