「SLY」吉本ばなな

p136のとこ好き。

 

「しかし、今ここにいない誰かに何か、切実に伝えなくてはいけないことなんて、この世には本当にあるのだろうか。

今の私には、世にもまずい朝食を出すがほかは大変感じのいい、このシェパードホテルのカフェの午後の、気だるい風景がすべてだ。ひとりだが、孤独ではない。あと何時間かでみんなここに集合して、カイロタワーに晩御飯を食べに行くことになっているから。

はがきを書きながら、そんなことに気づかなくてよかったのに、と思った。あまりにも本当すぎて、もの哀しい感じがした。

それはミミの笑顔が恋しいとかいうこととは別に、今ここにないものに焦がれて焦がれて病気になってしまいそうな気持ちをどこかに忘れてきたような感じだった。

しかしその哀しさにはたくさんの水分が含まれていた。目の前にはぽっかりと空間があって、そこにはみずみずしい花の香りのような自由がある。楽しく感じるもうちひしがれるも完全に自由自在である世界が私の前に両手を広げている。ああ、喬が馬車で言っていたのはこのことかもしれない、と思った。

教会で少し厳粛な気持ちになったままの、清潔で静かな感じが心に残っていた。

帰ったら、あのようなルビーと真珠を使った神聖さ、おかしがたさを持ったネックレスをデザインしてみよう、と思って、そのへんの紙にいろいろ下書きを描いてみた。

それは冒瀆にはあたらない。聖人と全く同じように、それをする誰かのひとつしかない肉体と骨を守るためにつくられるのだから。」